沖縄  苦難の歴史

人頭税を知っているだろうか。 1609年薩摩に侵攻され、その後課せられた重税に耐えかねた琉球王朝は、ドミノ式に先島(宮古諸島、八重山諸島)にその財源を求めた。 これが人頭税である。

ここに新川明氏の「新南島風土記」という本がある。 氏が沖縄タイムスの新聞記者時代に八重山支局に赴任し、1964年から翌年にかけて取材、掲載した記事を、後年1冊の本にまとめたもので、1964年といえばまだ米国統治下にあった八重山の姿を書いたものである。

その中の「石垣島」のところで人頭税の始まりについて書かれている一節を紹介する。

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 尚真の統一政策による行政区画が定められ、尚豊のときにはハ重山の各島々を宮良、石垣、大浜の三間切(まじきり)に区分、各間切ごとに一人の頭職をおいて三人の頭職が蔵元内で合議制により行政にあたった。のちに行政の完璧を期すために常置の行政監督者として「在番」を首里王庁から派遣させ、さらに一時期は薩摩の「大和在番」も常置されるようになった。
 こうして中山王府(そして薩摩)の支配はハ重山の隅々までおこなわれるようになり、かの人頭税制度という苛酷な人民収奪の制度がしかれて支配体制は確立された。
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一般には「じんとうぜい」と読み、琉球が宮古・八重山の各諸島に課したのは「にんとうぜい」と呼ぶらしい。 読んで字のごとく人の数で税が決まり、15歳から50歳までの住民を対象に一人一人に、男は農作物、女は布を税として課せられたが、地域によって違うものも収めたらしい。

当時は年齢がはっきりしないことが大部分で、ほとんどは身長を測って決めた。 そのためのモノサシが人頭石で、これより背が高いものは15歳以上とみなされ税を課せられた。

この人頭税を納めることの大変さを、同じ本の「与那国島」にこのように書かれている。

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 ともかく、人頭税時代の苦しさ、辛さを歌った民謡はないものかとひそかに期待しながら島のお年寄りでもっとも昔のことに明るいといわれる崎原クマさん(八九)を訪れた。
 目も耳も達者なお婆さんで、ちょうど軒端のハタでミンサー(伊達巻き風の帯)を織っていたが、案内のU君が来意をつげると、人なつっこい微笑を浮かべながら座敷へ招じ入れてくれる。
 若いころはさぞかし美人だったろうと思わせるととのった顔だちの持ち主だが、その顔いっぱいに刻まれた深いシワ。先島地方の人頭税が廃止になったのは明治三十六年のことだから、この人の青春時代はすべて重苦しい労役の日々に明け暮れたわけである。
 人頭税時代といえば、何か遠い昔のことのような感じさえもつのだが、現に目の前で、物静かにハタを織っている人が、二十九歳になるまで、その苛酷な制度は続いたのだ。
 人頭税に先島の人たちが呻吟(しんぎん)した時代は、このように、決して遠い昔のことではなく、手を伸ばせば触れることのできる近さにある。顔に刻んだ深いシワと、入れ墨をした節くれだった手をもって目の前に座っているのだ…。
 ――こう考えると、えもいわれぬ感慨が胸を横切って、しばし無言のままこの老女の静かな表情を眺めるだけだった。
 男は米、粟作り、女はご用布織りに昼も夜もなかったこと。これらの上納品が少しでも出来が悪いと番所できびしい責め苦にあったこと。野菜のかわりにタンポポやツワプキなどの野草を食べていたこと。貢租物を運ぶ御物船の到着が遅れると数干の俵を解いて干しなおしをさせられたこと。年貢米は定められた額の外に運搬中にこぽれる減量分を見積って余分に負担があり、番所に詰めている与人や目差し(ともに役人の職名)などの役人の賄い分も出すので一層苦しかったこと。役人の現地妻である賄い女は、貢布免除の特典があったが、喜んでこれになる者はいなかったことなど、これまで多くの人によって書かれ、語られている人頭税のころの苦しい生活のあれこれを物静かな口調で話してくれた。
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ここで「えっ?」と思う部分がある。
……人頭税が廃止になったのは明治三十六年……
琉球王が退位し首里城を明渡して王国が崩壊、沖縄県が誕生したのは明治12年であり、遅くともこの時期に薩摩の支配から逃れたはずなのに、なぜその後24年間も人頭税が続いたのか。
それは薩摩に代わって明治政府が搾取の元締めになったからである。 この事実は沖縄県とは名ばかり、国が沖縄を植民地化して搾取していたのである。 この状況をもっと言えば国が(沖縄が日本というならば)日本人を、奴隷的扱いを継続したと言ってもいいだろう。

廃藩置県から以降、日本が取ってきた独りよがりな政策を、新川明氏は「石垣島」の中で短くまとめている。

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 明治十二年、廃藩置県により国王・尚泰(しょうたい)が恭順上京して明治政府の琉球処分は一応の片がついたが、対外的な問題として琉球の日清両属問題はなおくすぶりつづけていた。それ以前清国は琉球が清国に対して行なってきた進貢冊封を日本が禁止したことに強く抗議をつづけ、琉球のいわゆる頑固党もまた清国の救援をまち、明治政府に対する頑強な反抗をつづけていた。
 こうした中で明治十二年三月、処分官松田道之によって廃藩が断行されたので、清国は同年五月、おりから世界旅行中の前アメリカ大統領グラント夫妻が同国に立ち寄ったのを機会に、グラントに琉球帰属問題の調停を依頼した。
 このとき、宮古、ハ重山の住民にとって由々しき大問題がもち上がった。歴史上有名ないわゆる「分島問題」がそれで、このときあやうく両先島は清国に身売りさせられるところだった。
 清国の依頼をひきうけたグラントは再三にわたって伊藤博文らと会見、また明治天皇と会った折にも琉球問題について意見をのべて、琉球を分割して一部を清国に譲って事態収拾する分島案を進言した。これは両国の譲歩による妥協をすすめたものだが、翌年明治政府はこの分島案を具体化して、宮古、ハ重山の両群島を清国に割譲、ひきかえに日支通商条約を改修することを清国に提議した。
 「改修とは日本商人に西洋人と同じく中国内地にはいって貿易することを得しめる条項の追加を求めたもので、いわゆる『分島改約』の提案であり、宮古、ハ重山両島の土地人民と中国内地の貿易の利権とを交換しようというのであった」(比嘉春潮『沖縄の歴史』)
 このあと清国側は、日本の提案の上に立ってさらに独自の琉球三分案を考え、日本に示したが日本はこれをはねつけ、あくまで「分島改約」を主張、ついに明治十四年一月をもって分島改約を発効させることで話し合いがつき、清国側は、皇帝の裁可をまつのみとなった。
 ちなみに清国側が提案して日本が拒絶した琉球三分案とは、琉球を三分して北部(奄美大島)を日本に、中部(沖縄)は琉球王に復させて王国を再興、南部(宮古、八重山)は清国に帰属させるというもので、日本案にしても、またこの清国案にしてもいずれの場合にしろ宮古、ハ重山は清国へ帰属させるというものであるから、先島住民にとっては同じようなものである。
 もちろんこのような経緯を経て、日本側提案の分島改約案で双方の意見が一致し、効力発生の期限まできめられたことは当の宮古、ハ重山の住民はもちろん沖縄の一般住民はだれ一人知るよしもなかった。「日清政府間にこういう問題がおこり、交渉が行なわれているということは、沖縄側では尚泰と極めて少数の親近者がおぼろげに感知して希望的観測をなすの外、廃藩置県の現実を見ている一般住民はもちろん、当の宮古・ハ重山島民のだれ一人自分らに近づきつつある運命について何一つ知らなかった。また改約によって利益を得るはずのものは、そのころの沖縄人はだれ一人もいなかった」(『沖縄の歴史』)ということだからあたかも第二次大戦後の昭和二十六年、日本の独立と交換に結ばれた対日講和条約によって沖縄全住民の意思と無関係に沖縄をアメリカに「身売り」させた日本政府のあり方と軌を同じくするものであり、歴史の皮肉を感じさせるところだ。
 しかし、明治政府によってまさになされようとした宮古、ハ重山の清国帰属を中心とする琉球分割条約は、清国皇帝が裁可をのばしたため正式調印のはこびにならず、ウヤムヤのうちに葬られてしまった。この間、琉球王国再興の救援陳情のため福建省にきていた名城里之子親雲上(なしろさとぬしぺーちん:林世功)が、自刃して琉球救援を訴えるなど、頑固党の執拗な抵抗はつづいたが、時代の流れをかえることはできなかった。結局、分島改約は実現せず、宮古、ハ重山も清国の属領にならずにすんだが、七十年後の昭和二十六年には、再び日本政府の意思によって沖縄ぐるみ米国に売り飛ばされた。明治十四年一月をもって両先島が清国に帰属されて宮古、ハ重山の人びとが中国人となっていたらどうなっていたことだろうか。おそらく明治二十七、八年の日清戦争で台湾とともに再び清国から割譲をうけて日本領となり、さる大戦による日本の敗戦で、沖縄は米国の統治になるが、宮古、ハ重山は再び台湾とともに中国へかえされ、今ごろは中国大陸を締め出された台湾政府の一属島として太平洋の孤児になっていたことだろう。
 思えばささいな歴史の歯車のズレから予想もつかぬ方向へ押しやられてしまうことのおそろしさを、いまさらのように感じさせられるし、いつの時代でも自分の意思とは無関係に力のある者の意思だけで翻弄されてきた南島人のかなしい宿命を怒りをもって思わずにはおれない。
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薩摩に搾取された時代。 そして明治時代に「沖縄併合」され、以降、日本による皇民化政策・教育の徹底により今度は琉球の文化までも奪われ、日本に同化させられていった沖縄。 そして日本のために沖縄史上最も悲惨なアメリカ軍と日本軍の地上戦。 数々の出来事を見聞きするにつれ、日本の所業に対して沖縄が被った損失はあまりにも大きいことに気づく。

辺戸岬に建っていた「祖国復帰闘争碑」は、沖縄人自らの日本への復帰運動であった記念碑である。 それに対する新川明氏の「反復帰論」もあったが、アメリカの横暴も一因だったとはいえ、すでに多くの沖縄人は日本同化政策に毒されての復帰運動だったのではないだろうか。


【引用・参考】
新川明著 「新南島風土記」 岩波書店  ISBN 4-00-603126-2

沖縄観光・沖縄情報 IMAホームページ
http://www.okinawainfo.net/ → 沖縄の歴史

沖縄タイムスホームページ
http://www.okinawatimes.co.jp/ → 特集・連載 → 沖縄の風景 → 復帰30年・沖縄の海図



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